地獄は「こころ」の中にある

ほんとうをいえば、わたし地獄確あるべきだIと思っている.なぜなら、地獄が信じられなければ、われわれはお浄土も信じられないからである。

お浄土というのは、仏さまの国である。

仏の国だから、そこは浄らかな世界なのだ。

仏は、わたしたち迷える人間を、不幸や苦しゑの多いこの世という地獄の底で叩吟しのたうちまわっている人間を、その地獄から救い出して、お浄土に住まわせてくださるのだ。

仏教ではそう教え、そしてわたしはそう信じている。

だから、お浄土と仏の救済を信じるために、わたしは地赦の実在を信じなければならないと考えている。

地獄がなければ、仏の救いもないからである。

けれども1.よしんば地織の実在を信じられない人であっても、人間のこころのうちに地獄がありお浄土があることだけは、しっかりと認識しておいてほしい。

それは最低の要請である。

こころの中にある地獄・極楽でさえ信じられぬ人は、もはや仏教を学ぶ者とはいえないのではなかろ、クか……。

わたしたちのこころのうちに、地獄がある。

たとえば、昭和二十九年の秋、台風に襲われた青函連絡船の洞爺丸が転覆座礁し、乗客二五五人が死んだ。

嵐の海では、きっと地獄の光景が展開されたにちがいない。

けれども、この洞爺丸には二人の外人宣教師が乗っていた。

彼ら二人は、救命具を持たぬ若い男女に自分たちの救命具を与えて、そして死んでいったのである。

三油綾子さんは小説『氷点』のなかでこの話を紹介しておられるが、これは彼女の創作ではない。

事実としてあった話なのだ。

救命具を奪い合うとき、そこには地獄がある。

だが、二人の宣教師のこころの中には地獄はなかったのだ。

彼らのこころの中にあったのは、「永遠の神の国」であったと、わたしは思う。

いや、そんな限界状況でなくともよい。

わたしたちの日常生活のなかでも、ときに地獄が出現する。

満員砺車の中で、ほんの少し譲ってあげればよいのに、肩肘を張って自分の居場所を確保しようとしている人がいる。

その人のこころには、そのとき地獄が出現しているのである。

自分の出世のために同僚の失敗を願うビジネスマンのこころのうちには、明らかに地獄がある。

その「こころのうちなる地獄」こそ、最大の地獄かもしれない。

わたしはそう思うのである。

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